私小説について

‪過去の苦しみを自ら語ることで、自認することで、蓋を外された容れ物から土石流のように溢れ出すものがある。その勢いや量に圧倒され、身動きはおろか、まばたき一つでさえ出来なくなる。‬

それでもこのままでは居られない。恐ろしくても見つめなければならない。そしてそれを文字にしなければならない。何故なのかはわからない。トラウマを乗り越えることへの必要性はもちろん感じるが、もっとそれよりも根幹的なところで、必須行為であると感じる。

私が今の私で生まれて来たことに意味はないのかも知れない。しかしもしそこに意味を見出して、期待し、希望と挫折を繰り返してもやはり希望して生きていく為には、どうしても必要であると思われる。

詩がその表現法の一つであることはもちろんだが、生きている間に一つ、小説を書く必要があると感じている。これは、強烈で痛切な衝動である。

‪15歳から17年間も詩を書いていながら、これまでの人生でただの一冊も詩集を出していないこの私が、これを思うのだから不思議ではある。けれど必ず、必要なことであると信じている。‬

せかいのおわりのときに、だれのこえをききたいか

よくわからない


でも他の意味なら、

せかい、つまり自分の命の終わりにだれのこえをききたいか

それは少し考えやすい気がする


誰だろう


なんでだろう

おはようトレーニング、テキスト「ひとむぎ 完」を受けて

「逡巡」という言葉は、もしかしたらネガティブな意味のものとして使われているのかも知れない。

このテキストを読んで初めに浮かんだ言葉が、「逡巡」だった。

辞書に載っている正しい意味は知らない。イメージ先行。

辞書を引いたら、想像していたよりも何だかネガティブな言葉なんだなって思って少しガッカリした。本作には似合わない(投稿後に本ブログを読み返して、言い切るほどでもなかったかもとも思ったから不思議)。でも、意味が違っても、私にとってはやはり逡巡だ。この音がいい。たとえ勘違いでも、自らの中で考えていた意味がいい。

構造について言えば、本作では「わたし」の思考が繰り返し巡る巡る。それは、「全く!だから何が言いたいんだよ!」とさえ思わされるほどに。ハッとした。人間とはこうやって悩んで悩んで悩んで、半歩とか、一歩とか、現状維持(尊い)とかやって来たんじゃないか、と。

人間本来の在り様を、ほんとうとして表している。その点で既に素晴らしい作品だということに気づかされた。

ともすれば、それが誰かにとっての冗長であっても、「お前何を言うか。人間だ。私は人間だ。文句あるか。」と言わんばかりの迫力がある。それは作品の成功だろう。


ラスト、語られないこの後の人生を見せられたように感じている。つまり、逡巡だ。またしても。いや人生とはそうなのだ。

これからも、続いていく。





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おはようトレーニンTwitter

@ohayotraining 

人間

このせかいで、「誰かの為に」と言うのは、あまりに難しい。けれど、「自分の為に」と言う時に生まれる外野の声なら引き受けていける。

せかいの中で取るに足らない存在であること、即座に返答できないこと。そういったえいえんの苦しみから、何とか抜け出して、自分の人生を生きることを目指そうとすること。尊いこと。それは、詩に関与し続ける理由の一つ。

「自分の為に」が「誰かの為に」になることもあるか。それはわからない。

でも、強欲でも何でもなく、とにかく自分の命を全うしようと目指すときの、人間のひたむきさを信じたいと思う。

街のひ、果てるひかりに

白い朝

くゆらせる煙のいちまい向こう

気怠げな表情がゆっくりと覚悟に目覚めていく

形だけ真似たわたしのそれとは違う、呼吸があった


起き上がってからの動作は速く

ひな鳥がパクパクと口を開いて鳴き続けるように

わたしはただ、呼吸し食べ、寝て排泄するだけの生き物だった

人は時に、その人たちをまるで人間ではないかのように扱うが、あの時代、あの人は確かに人間だった、生きていた


ネオン街に手を引かれてゆくというよりは、身ひとつで自ら潜っていく漁師や海女のようだった

何回目かのしゃせいに立ちあったあと、ていねいに、やさしく手を洗いながら、お夕飯のことを考えた、その先の笑顔のことを考えた

徐々に擦れていく何かを知りながら、それでも生活は進んでいく

ごま油に醤油をかけたご飯を喜んで食べていたひな鳥は、雨どいの下ひしゃげて死んでいた



二階建ての夜行バスから見える景色に自由を感じた

最期の街

カーテンの隙間から射し込む光は、いつかのひかりに似ている気がした

滲むフィルターにネオンが綺麗で、ぐしゃぐしゃの表情に、離れ難い愛おしさを覚えたこと、思い出していた

こえとギター展

20分間のライブパフォーマンスを無事に終えることが出来ました。

ご覧下さった方、気にかけて下さっていた方、ありがとうございました。

11作品を用意して行きました。

会場の雰囲気、お客様の層などを見ながら受け取った自らの感覚を信じて、リーディングする作品を変更したり、順番を変えたりしました。

当日は小さな紙を配布しました。どんな紙かと言うとここに載せている画像と同じものです。A4半分のサイズです。

最終的には、8作品を以下の順にパフォーマンスしました。◇は詩の朗読、◆はポエトリー・リーディングでパフォーマンスするという構造にしました。

詩に遠い方々にも、詩とは何かということや、朗読とリーディングを私がどう定義づけて使い分けているのかということを感じてもらいたいと考えていました。


◇1.ふれる

◇2.Umi

◇3.悲しみの海、たゆたうからだ、あずけて

◆4.四つ角に孤独

◇5.てのひらに優しさが開かれる

◆6.生きてゆくなら、生きていくから

◆7.暗夜こうかい、灯光

◇8.街のひ、果てるひかりに


尊敬する先輩がおっしゃっていた、詩が持つ遅効性(即効性とは反対の意味です)を意識して、詩の力を信じてパフォーマンスしました。

また、同じく先輩のライブパフォーマンスを拝見して、真似したいと考え、座った形や立った形、何気ない所作についても意識をしました。じっとしているということも表現なのだと。



主催であり演者でもいらした、佐々本さま、ばるるさま、

演者のてぃのさま、tumulusさま、

そしてお客さま、目の前のあなたさま、

ありがとうございました。



えんぴつのもじがきえるころ、


詩が呼吸しますよう。



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B-REVIEW TEN / びーてん

B-REVIEW TEN、ありがとうございました。

詩、コミュニケーション。

まぶしい場所でした。まぶしく見えた。

日ごろまばゆさとは遠いですから、まぶしいところにはいたけれど、現実感のない心地もしました。

直接、間接問わず参加くださった方々、ほんとうに、ありがとうございました。


ぼくは、今から書くことを、きっと上手くは言えないと思います。ですが、向き合おうとはしたい。そう思います。


パーティーが終わり、僕はどこかで、自分がせかいの主役かのような、ヒーローのような、そんな感覚が持てるような、華々しい今日を生きているということを想像していたのかも知れません。

ですが、今日は今日で、先週の土曜と、2週間前と、1ヶ月前ともなにも変わりません。どちらかと言えば、くらいです。日曜日はあまりにまぶしくて、僕にはまぶしすぎました。

まばゆさよりも、どこかで、今日のような日陰が信用できます。それはきっと、詩の多くを、そこで書いてきたからだと思います。

とは言え、たまにはパーティーを開いて、普段とは違う自分に跳躍してもいいのかなとも思います。


やっぱり、あんまり上手く書けなかったな。僕はなにを書きたかったのかな。少なくとも、書こうとしたかったんだな。まいにち、断絶に抗う感覚があって、生きているということは、生きていく限りは、断絶に抗っていくことだと、そうしていかなければならないと、思うのです。

何かが伝われば嬉しいです。


無駄なく美しく語られる言葉も好きですが、個人的には、震えながら踏み出す一歩のような、醜い、ダサい言葉が発せられる時の奥にある心を、信用しています。



B-REVIEW TEN、ありがとうございました。


、展、典、点、転、天、てん、テン、



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