てのひらに優しさが開かれる

おばあちゃんと

バスを待っている

ただそれだけの詩

ただそれだけの詩情



麦わら帽子に

見えない風が吹きつける

海が割れる

吹き抜ける風

揺れないものが揺らす、なにか



往路の刺激も

いつか必ず復路(あんしん)へと向かう



日焼け跡に影が射して

浴びた陽の光のことはなかったことにして

もう一度夏を始めたかった



そのコをとどめたのは、ゴム製の繋がりだった

柔く、不自由でもない力

たわむ時に痛みはなく

ただ、あんしんだけを伝え合う



枝木はキリキリと声を上げて

それでいて笑顔で

その終わりをただ受け入れているよう



命の終わりに旅がある


最期の反動


相乗りして飛び立ったちいさな命が種を蒔くころ

空で優しく打ち合った

ハイタッチの音こそ平和の

笑い声だった

コロコロころっとコロケーション

むかしから、「コロケーションであそぶこと」はよくしていました。

コロケーションとは何か。簡単に言うのであれば、「言葉と言葉のよく使われる組み合わせ」みたいなものでしょうか。

「空」が「青い」とか、「ご飯」が「美味しい」とか、「辞書」を「引く」とか。

あってる?あってんのかな。間違ってたらごめんなさい。笑


コロケーションの常識とは別に、「言葉と言葉の距離が遠いもの」を「あえて結びつける表現」というものがあると思います。「通常の使われ方ではないのに、その効果を倍増させる言葉の掛け合わせ」というものがあるのだと思います。

コロケーションのおもしろさに気がついたのは多分ずっと前だと思うのですが、歌人穂村弘さんの「ラインマーカーズ The Best of Homura Hiroshi」の中のある作品に出逢い、その興味をより深めたことを覚えています。それが以下の作品です。



>>「愚かなかみなりみたいに愛してやるよジンジャエールに痺れた舌で」



「かみなり」に「愚か」さなんてないですよね。コロケーションで言うと、一般的な使用法ではない。なのにどうか。とてもとても面白い。私なんかは「それはいったいどんな愛し方なのか」などと考えさせられます。


このように言葉と言葉を繋ぐにあたって、常識やルールにとらわれない方というのが世の中にはいらっしゃいます。

私がまず浮かべるのは、穂村弘さんと武田地球さんです。

武田地球さんは短歌や詩、そのほかに文章など、もしかしたらジャンルにとらわれないものも書かれる方です。ここではその中の詩についてのみ言及するにしても、その「ぶっ飛び感」はずば抜けてすごいと思っています。

B-REVIEWの掲示板で武田地球さんの詩を読むよりも前にツイッターのツイートを見たのがその初めだったかと思いますが、ツイートの「言葉と言葉の繋がりの遠さ」とその「面白さ」に圧倒されました。そこに詩を感じました。「これは詩として書いたものです。」という説明抜きに、あるいはそれとは無関係に、詩で撃ち抜かれる体験でした。


私はひたすらに、伝達性とその写実性を上げる為だけにと言っても過言ではないほどに、そこに注力して詩や文章を磨いて来ました。

天才はいます。もう一度言います。天才はいます。

ここで思うことが一つ。その時私は私自身に砂をかけることはないということです。ジャンルや得意分野が違うのです。ただそれだけなのです。だから下を向かずこれからも詩を書き続けていきたいです。

と最後は決意めいた文章になりましたが、まずはここにコロケーションのおもしろさを絶叫して、本文を締めくくりたいと思います。


とか言いながら武田地球さんの詩を一部ご紹介!




行き先不明、朝8時15分


いやな感応をする

道端、ぶどう畑の看板に吸い寄せられては泣く

並んだねこよけペットボトルの群れが、

うったえてくる


いやな感応をしている

曇り空が赦せない

この先、の矢印がにくい


https://www.breview.org/keijiban/?id=826

コミュニケーションとポエトリー・リーディング

コミュニケーションにおいて、これまでの人生をかけて「どれだけ伝達性を高められるか」に注力し磨いて来た。

一方、こと詩となると、意味の伝わらない難解な、あるいはギリギリ意味は通るがルールにとらわれない言葉というものに一定の高い支持があるのではないだろうか。

はっきり言って、磨いて来たものが違い過ぎる。そのような素晴らしい言語感覚の持ち手を前に、私には入る余地がないだろう。そこにおいてポエトリー・リーディングは私にとっての息継ぎであり、世界との接続部分、ひいてはその先を見せる希望なのかも知れない。






くだらぬ嫉妬

夏の間隔プールにこむら返りする

秋は取水口で止めどないのを

眺めていた



くだらぬ嫉妬

夏の間隔プールにこむら返りするのを秋は

取水口で止めどない

眺めていた

「臭い」と書けば身に迫るもの。文学。

言語化できない負の感情と折り合いをつけたり、時に爆発をしたりしなければ、今日までとても生きて来られなかった。

一側面として、その手段でもある俺の詩は、美しいものではない。ある種の醜さに近いだろう。

しかし、仮に生きることが汗をかくことであり、そしてそこには「においが出る」ということと切り離せないものがあるのだとしたら、やはり醜さは美に近いのかも知れない。卑下することもないのかな。



ここまでとここからの間の15分間、スーパーで買い物をしていたら、言いたいことがわからなくなってしまった。

そういう意味では、生活のための行動も、折り合いをつけることであり、ある種の爆発であるのかも知れない。

詩人が書く、ふつうの詩の話

マチュアコスプレイヤーに撮影担当や衣装担当がいるように、アマチュアの歌手に作曲担当がいる。これらは全て、担当側が「是非やりたい」という場合についてである。

「アマチュアの~に~担当がいる」ということについて考えている。

例えば、金を稼がないという意味でのアマチュアの僕、詩人に、誰が作曲担当を、撮影担当を、演奏担当を、挿絵担当をするというのか。

「うちのインスト(歌手を立てない)バンドのポエトリー・リーディング担当として参加して下さいよ。」

そういう声がかかるということ。かからないということ。ここに一つの詩を広めるためのヒントがあるように思う(もちらん、前提としてそもそも詩を広めなければならないのかどうかという論点があるのだが)。

ただ一つ確かなことは、そのようなことを考えて磨いていくリーディングや詩作品は、僕という人間個人の中において成長の有無と関係が深いとは思う。一側面において。

一側面というのは、もちろんそんなことを意識して努力せずとも、いま書いた詩が、このいま詩を書くということが素晴らしいという考え方、側面もあると言えるからだ。


まぁ、簡単に言うと、「力を貸して欲しい」とか、「あなたの詩作品やリーディングを使って○○の表現を飛躍させたい。楽しみたい。」という声がかかるような者になりたいなとは思う。そうなれた自分は悪くないなと思う。

コスプレや音楽にそのような行き来や依頼があるのなら、詩にだってもっとあっていいだろう。

そう思う。


がんばるぞ!


詩人

クヮン・アイ・ユウ

だれかは、「しんだら星になる」と言う。それなら、その星をたとえ屑ひとつだって残さずに喰べたいや。でも、誰ひとり喰べもしないじゃないか。自分だって。

自分が人を変えられないことも、助けられないことも知っているけれど、それでも、亡くなった命には立ち尽くす。
心は、向かう先や置き場を欲しがるから、我々はそのベクトルを何に向ければいいのかと考え始める。内に向ければ自らを責めるし、外側に向ければ更なる不幸が生まれるのかも知れない。そんなときに思う。私は、この心は、いったいどこへゆけばいいのだろうと。

自分が人を変えられないことも、助けられないことも知っているけれど、それでも、亡くなった命にはただただ立ち尽くす。

破裂したい詩に詩に詩に

ツイッターに「詩が破裂しそう」と書いた。嘘。投稿する前に思った。(破裂しそうならそれはもう破裂してんだろうが。ならそれを詩にしろよ!)と思われて立ち止まった。そしてこの詩だ。この詩はどこへゆくのか。何になるのか。これが詩ではないと言う人がいたら僕にとってプラスだ。ありがとう。ありがたい。僕は冷静な頭でそう書きながら、実際に言われて悔しがるのだ。

その人がどう育ったのかなんて知らない。知らなくてもなぜか無条件にからだの一番弱いところを差し出せてしまえるような、そんな風に思わせてくれる人というのがいる。この世界にはいる。自分はどうか。

僕は、そんな人たちに出会えて幸せだった。そんな人たちにならいつ刺されてもいいと、それは殺されるとかではなく、何というかその人の心で撃ち抜かれても清々しいというような心持ちがしていた。実はこの過程で「心持ち」という言葉の意味を辞書で引いた。僕は臆病な人間だ。間違うことを恐れる。伝わらないことを恐れる。誤解されることを恐れる。こんなことを全てステージにぶちまけて、全員が呆れても唖然としても無関心でも、僕は僕のためによく生きたと喝采したい。今日はよく生きられただろうか。

罪のない人間にはなれない。この先も過去も。がむしゃらに働いても給料は上がらない。がむしゃらに働かれても資本主義は迷惑するだろう。それでもがむしゃらにするしかない時間があり、僕はそんな時間を重ねるしかなかった人とお酒が飲みたい。嘘。お酒が飲めないから、お酒の飲めるラッパーやバンドマン、詩人に憧れる。僕はあまりに普通だ。そんな普通のやつがまだ詩を書いている。この詩はどこへゆくのか。何になるのか。

詩は僕を必要としないのかも知れない。もしそれが真実ならとても悲しい。でも、どうしても、僕には詩が必要だった。必要だ。

高級なホテルのロビーを出た。僕にこの空調は勿体ない。外の生ぬるいイライラさえさせるこの暑さに身を晒して、この続きを書いている。

こんな詩は誰にも必要のないものかも知れない。かも知れないと書くのも傲慢なような、詩だ。でももし書くしかないのなら、なかったのなら、引き続き止むに止まれず生まれる詩よ続いてくれ。

こんな詩が何になるのか。どこへゆけるのか。わからない。わからないが目の前に立つ美しい人の鞄にAgainとあり、そう受け取ったのならそういうことだ。

でっかいステージで、極私的な、誰も興味のない言葉を、魂を破裂させたい。そこでもう死んでもいいな。

詩を破裂させるために、まだまだ書くしかないことだけが明らかで、俺はいつ終わるかもわからないけれど書いて生きたい。

去年の暑い時にストリートライブをしたな。遠くで見ている少年と目が合って、ゲラゲラと馬鹿話をして笑っていたその目が真剣になるのを見た

この解釈を勘違いと笑うのは容易い

悪いな

解釈はこっちで決める

それが人生だろう